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人間の格
2003年4月12日
宇佐美 保
テレビ子(否!テレビおじん)の私は、自宅にいる時は殆どの時間テレビを点けっぱなしにして居ました。
そして、以前はNHK教育テレビに於いて、日本の大企業の多くの社長の談話などを放映していました。
そして、気が付きました。
いわゆるサラリーマン社長と創業社長とは全く違う人種と思いました。
即ち、前者からは感銘を受けることがありませんでした。
AERA(2003.31号)で、 “横綱朝青龍の品格の欠如バッシング”に端を発して編集部 長谷川煕氏が書かれた「品格とは何か」では次の記述がありました。
2002年の年末のことだが、道路関係4公団民営化推進委員会の委員長で高速道路の建設推進派とされた今井敬氏(新日鉄会長、前経団連会長)が建設抑制派の松田昌士委員(JR東日本会長)について、
「私と松田とでは経済界での格が違う」
と、周辺に語ったことが報道された。
百歩、いや万歩譲って、両者の経済界での位置づけは今井氏の認識の通りだとしても、日本が直面する構造改革への取り組みと「経済界での格」とかの間に何の関係があるのか、という怒りが世に聞こえた。
当時の状況を思い起こせば、誰しも、今井氏には「品格」が欠如していると感じると思います。
更には、前横綱審議委員会委員長の渡辺恒雄・読売新聞グループ本社社長の「貴乃花」(また、古くは「清原」)への発言を思い起こせば、貴乃花、清原と渡辺社長とでは、貴乃花達の格が、数段上であることは誰でもお判りと思います。
どうもサラリーマン社長は「会社の格」と「自分自身の格」を混同されてしまうようです。
更に、最近、新生銀行の八城政基社長が田原総一朗氏によるインタービューがBS朝日で「天才的経営者の日本経済蘇生法」との題名で放映されていました。
“一般企業では「社長」と呼んでいるのに、銀行は「頭取」何か偉そうな名称を付けているが、私は直ちに新生銀行では「頭取」を廃止し「社長」に変更した”との八城氏の決断には拍手致します。
この1時間半の番組中、八城氏から私が感銘を受けたのはこの一点だけでした。
田原氏は(外国)経営者達の報酬の高さを突っ込みましたが、“報酬の高さが社長の責任を生む”旨を主張し、ジャック・ウェルチ氏との交流を(誇らしげに)語っていました。
(どうも、小さな人間程、自分が大きな人間に知己を得ていることで、自分も大きな人間であることと錯覚する傾向があるようです。
この点に関して、八城氏は如何なものかはっきりとは判りませんが。)
確かにウェルチ氏は、次のように紹介される位に、一時は大変な人気でした。
2001年9月までGE会長兼CEOを21年間で務め、ゼネラル・エレクトリック(GE)社を電機関連から、金融サービス、放送事業まで手がける一大企業グループに拡大、高収益体質を築いた実績から「20世紀の最も優秀な経営者」「千年に一人の経営者」(フォーブス誌)との名声を得ていた。
しかし、直ぐに「化けの皮」が剥がれます。
彼はGEの業績を上げたとして、推定年間報酬(2000年)は90億円といわれている。
「GE社のように尊敬を集める巨大企業でさえ、ジャック・ウェルチ前最高経営責任者が収益報告に巧妙に手を加え、企業合併の際に便宜的な会計を行うことによって、現在のうらやむべき名声を築いた」
ノーベル経済学受賞者ポール・サミュエルソン(読売新聞2002.8.5)
「混乱していて法的トリックすらある数字が、誇り高い業績を実現している」
ジョン・ビネガー(マネー2000.10月号)
とさえ書かれる始末です。
真に、その高額報酬に見合う働きをしている社長がどのくらい居るのでしょうか?
インターネットから抜粋させて頂いて、もう少し八城氏について書きます。
(http://www.telerate.co.jp/realtime/0301/interview.html)
“社長御自身が経営信条としていることは”との問いに、八城氏は次のように答えています。
「(経営信条と高邁な言い方でいうようなものは)特にありません。あえて申し上げれば、やらなければいけないことをはっきりと認識し、それを着実に実行する、ということでしょうか。当行に必要なことは、不良債権処理をできるだけ早く処理する。将来にわたり長期的安定的な収益を生むビジネスを構築し、銀行を健全で競争力のあるものにする。こうしたことを理解したうえで、具体的目標を立て、やるべきことをやる。目標がどこかへ飛んでしまうような妥協はしない。こういったものが経営信条と言えるかもしれません」
田原氏との対談で日本企業の不合理さを説かれる八城氏のご意見には全て同感しました。
そして、八城氏が指摘した従来の日本企業経営の余りの不合理さ(企業が利益を上げるのは悪との認識、企業は大きい事が良い事だの欺瞞、人事部の人事権への執着、年功序列の酷さ、エリート育成と称する1〜2年での配置転換、職人蔑視、外部から優秀な人材導入の拒絶、痛みを伴う改革の拒否、不良債権処理に於いても日本の従来銀行は企業の業績をその時点その時点でしか捕らえての対応しか出来ず、その企業の将来の危険性を見越してのリストラを迫っていない等)に唖然としました。
これでは、小泉首相同様に何をさておいても構造改革と叫ばなくてはなりません。
けれども、残念ながら、八城氏から学び取りたいと思う人間性を(私の未熟さ故か)感じませんでした。
一方創業社長である、ソニーの井深氏、盛田氏、松下の松下氏、ホンダの本田氏、京セラの稲盛氏……からは、生きた人間性を感じ、私は多大な感銘を受けました。
でもたった一人、ダイエーの中内功氏からは一度も感銘を受けませんでした。
何しろ中内氏は“偉大な社長とは、その社長が居なくなった際、会社がガタガタになる社長か?何事もなかったように会社が従来通りに運営されて行く社長か?が判断出来ずに悩んでいる”旨を発言されていたのですから。
こんな社長をヘッドに戴くダイエーの社員は全く気の毒だと思います。
人間はいつ病気になるか命を落とすか判りません。
ですから、いついかなる時にも、自分が居なくなっても大丈夫な体制に会社を日頃から整備しておくのが社長の役目ではありませんか!
こんな不出来な社長を戴いた為に、可哀相なダイエーの社員達は、今はとんでもない事態に遭遇しているのです。
しかし、可哀相なのはダイエーの社員達だけではないのです。
我々日本人全員こそが可哀相なのです。
自民党顧問、同党税制調査会最高顧問山中貞則衆議院議員の存在です。
大正10年生まれの彼が「税の神様」として、何故日本の税制を牛耳っているのでしょうか?
先日のテレビ朝日の番組「TVタックル」にて、舛添要一議員は“税制に関して何か発言しても、山中氏に“税金は難しいよな、俺は50年やっていても未だ判らない”と言われると、もう後は何も言えなくなってします”とのだらしない発言をしていました。
ダイエー同様に、山中氏が倒れたら日本の税制はどうなってしますのですか?
若しも、山中氏が「税の神様」なら税のシステムを分かり易く書面等に纏め上げ、後継者の育成に励んでいるべきです。
(もっとも、昨年(?)の同番組での同じ話題で、桝添氏と同様な発言があった際、乾貴美子さんは“山中さんが税のことに一番詳しいなら、辞典代わりに働いて貰ったら良いではありませんか”と発言されていました。私も同感です。)
それにしましても、山中氏はなんと怖い顔をされているのでしょうか?
私は、テレビ画面から山中氏の顔を見ているだけで背筋が寒くなります。
勿論、山中氏に限らず日本の政治家の顔はなんと醜いのでしょうか?
更にもっと怖い人達が、今のテレビ画面を占有し、私をテレビから遠避けます。
ブッシュ大統領、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官などのアメリカ政府高官達です。
彼等は何故あんなにも恐ろしい面相をしているのでしょうか?
何しろ彼等がやっている事ときたら、ジャック・ウェルチ氏同様な嘘と欺瞞の連続です。
「イランはテロの温床だ」、「イランは大量破壊兵器を隠している」、「イランの民主化だ」等と、イラン侵攻の口実を換えながら、イラン国民に砲弾を浴びせ死傷させて「自分たちは正義を実行した」との顔をして居るのです。
その彼等の背後には利権の黒い陰がチラチラしているのですから。
彼等から、「人間の格」を感じる事が出来ません。
こんな欺瞞だらけの彼等が世界をリードして行くのでは、将来が大変不安になります。
元セリーグ審判部長の富沢宏哉氏は“大リーグでは、「フェアプレー」はもとより「justice:公正なプレー(騙すプレーは避ける)」が最も尊ばれる”と解説されていました。
アメリカの高官達は、アメリカ人ではないのでしょうか?
1905年アメリカのポーツマスで、ロシア全権大使ウイッテ(身長:180cm)に対して、身長と143cmの小柄ながら日本の全権大使として、一歩も引けを取らずに交渉し、日露講和条約を締結へ導いたした小村寿太郎に関しての番組が、NHKテレビで、かって放映されました。
私は小村寿太郎に感動しました。
その小村寿太郎の青少年へ向けてのスピーチが、彼の出身地である日南市(彼との縁でポーツマスとの姉妹都市)のホームページに掲載されていました。
(http://www.city-nichinan.jp/kyoutsu/nichinan-ijin.asp)
私が学生に望むことは「誠」である。
私が人よりすぐれたところがあるとは思わない、
もし私に万が一長所があるとすればそれは「誠」の一字につきると思う。
この「誠」の一字の他に(と申しますより同じ意味と存じますが)、更に、私の心に刻みつけている言葉があります。
それは、朝日新聞(2002年10月23日)の「私の視点」『企業不祥事基本的な倫理観の確立を』に掲載された、京セラ名誉会長稲盛氏の以下の言葉です。
(とても重要な内容なので、この記事の全文を文末(補足)に掲載させて頂きます)
われわれはすでに子どもの頃に、親や教師から「欲張るな」「騙してはいけない」「嘘をつくな」「正直であれ」というような、最も基本的な規範を教えられている。そのなかに、「人間としての正しい生き方」はすでに示されているのではないだろうか。まずは、そのような単純な教えの意味を改めて考え直し、それを徹底して守り通すことだ。
先に掲げた、八城氏の「経営信条」に比較するまでもなく、格段に人間性に富んだ言葉ではありませんか。
先の小村寿太郎の「誠」、そして京セラ稲盛氏の「嘘をつくな」「正直であれ」等は、実に単純な言葉です。
ですから、そんな事、なにを今更と思う方が多いと存じます。
しかし、単純な事ほど実行に移す事が困難なのです。
先に掲げたAERAの長谷川煕氏は「品格とは何か」の定義づけに悩んだ末、幕末の偉人小栗上野介忠順を例に挙げ、「品格とは責任意識の発露」と解すると結論付けていました。
でも、私はここに掲げた「誠」(「嘘をつくな」「正直であれ」)を貫き通すことこそが「人間の品格」を高めるのだと思います。
そして、これらの言葉を抱き続けることが、青少年や企業経営者のみならず、全ての人にとって最も大事な事と存じます。
そして、特に、人の上に立つ人(政治家達)にとってこそ重要な事と存じます。
従って、「誠」を少しでも貫こうと心掛けない方々は、他人の上に立つことを諦めて欲しいのです。
(補足)
朝日新聞(2002年(平成14年)10月23日)「私の視点」
京セラ名誉会長稲盛和夫氏の全文
企業不祥事基本的な倫理観の確立を
近年、雪印食品、日本ハム、三井物産、東京電力など、日本を代表する企業で不祥事が頻発し、企業への不信感が増している。また、このことが低迷する日本経済に追い打ちをかけている。どのようにすれば、この危機を脱することができるのであろうか。
日本経済を支えているのは企業であり、その中心に位置するのは経営者である。これまで、その経営者の資質として、「才覚」が重んじられてきた。才能にあふれ、顕著な功績をあげた者が、社長など経営トップに任命され、企業や社会で高く遇されてきている。
しかし私は、昨今の不祥事を見るにつけ、それだけで評価してはならないと思う。
「才子、才に溺れる」といわれるように、才能をもって成功を収めた経営者が自分の力を過信して失敗してしまうケースがあまりに多いからだ。優れた「才覚」の持ち主であればあるほど、その力をコントロールするものが必要となる。
それがいわゆる「人格」というものであり、その「人格」を高めるためには、哲学や宗教などを通じて、「人間としての正しい生き方」を繰り返し学ばなければならない。
われわれはすでに子どもの頃に、親や教師から「欲張るな」「騙してはいけない」「嘘をつくな」「正直であれ」というような、最も基本的な規範を教えられている。そのなかに、「人間としての正しい生き方」はすでに示されているのではないだろうか。まずは、そのような単純な教えの意味を改めて考え直し、それを徹底して守り通すことだ。
大企業の社長たちに、このようなことを問えば、「一流大学を卒業し、トップにまで上りつめた自分に失礼だ」と一蹴されるかもしれない。しかし実際には、そのような大企業のリーダーが、プリミティブな教えを守ることができなかった、あるいは社員に守らせることができなかったから、企業不祥事が続発しているのである。
実際、先に挙げた企業では、業績に影響を与える事象が生じたときに、「欲張り」、企業の利益を優先した。また、その事実が発覚しそうになったときに、「嘘を言い」、「人を騙し」、事実の隠蔽に走ったのではないだろうか。
一方、私事になるが、バブル真っ盛りのとき、京セラには営々と蓄積してきた多額の現預金があったために、高騰していた不動産などへの投資を銀行等から勧められた。しかし私は、「欲張ってはならない」というプリミティブな教えに従い、不動産への投資は全く行わなかった。当時は、そんなかたくなな姿勢をアナリストたちから批判されたが、結果としてバブル崩壊の影響を受けず、京セラは成長を続けることができた。
企業統治の危機を脱するために、高度な管理システムを構築しなくてはならないという意見もあるが、私はそれよりも、先ほど述べたような単純なプリミティブな教えを、まずは企業リーダーである経営者、幹部自身が徹底して守り、また社員に守らせるほうがはるかに有効だと考えている。
最近発覚した企業不祥事は、氷山の一角に過ぎず、日本社会にはまだまだ多くの不正が隠されているのではないだろうか。そうであれば、私は人間としての基本的な倫理観を確立し、それを守り通そうとするきまじめな社会をつくることこそが、一見迂遠に思えるが、日本を再生するためにわれわれがとるべき最善の道であると考えている。
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